1月26日(日)の午後。礼拝を終え、カレーライスの昼食をとって、とある会議を始めて間もなくのことでした。3年9ヶ月の間、闘病生活を続けておられたYさんの奥さまTさんから電話が入りました。
「主人が、1時8分に召されました。・・・」と。
召されたのはYさん。昭和12年3月30日生まれの満76歳と10ヶ月の生涯でした。洗礼式は2012年のクリスマス。療養中のご自宅でのことでした。お部屋は教会の仲間たちで溢れていました。
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写真は棺の上に飾られた十字架です。ご遺族と相談して葬儀屋さんに希望を伝えて、originalを創っていただきました。素敵です。
葬儀を終えて、今振り返ってみると、わたしは(牧師のもりです)、ほんとうの意味での豊かさが溢れる葬儀だったと感じています。
これ、表現するのはなかなか難しいのですが、幾つか、ご報告しましょう。
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この度のYさんの召天を通して、人が、出来事が、地域が、教会の人々が、様々に繋がっていく。
そのまん真ん中に、イエスさまが居られたのだなぁ、とつくづく感じています。
イエスさまは、見えざるみ手をもって、出会いを生み出して下さる方でした。
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Yさんに受洗を1年と数ヶ月前に勧めたのはわたしでした。それは、Yさんがこう言われたからです。
「キリストがいつも影のように支えて下さっている。だから、病気に対する不安が不思議と感じられません。いつも平安に過ごせます。怖くない」
と。
Yさんは抗がん剤治療を受けながらお過ごしの方でした。命に限りがあることをご本人も承知して居られたと思います。
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この言葉を聴いたとき、わたしは感動と共に、ある種の衝撃を受けました。
どこかの本に記されているのでもない。聖書にそういう表現があるわけでもない。ごく自然に、そう感じていることを言葉にされた。その言葉は、お人柄のままに、柔和な静かな口調でした。
でも、力があった。
「あっ、これは、信仰告白だ」と直感しました。間違いなかったと思っています。だから、洗礼を受けましょうと勧めました。
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前夜式の日、礼拝式が終わり、かつての同僚(後輩)に当たる方が軽やかに想い出を語られた後、遺族挨拶に、次男のMさんが立ちました。
プロのサックスフォンプレイヤーであるMさん。
お父さまが召される二ヶ月前に、お父さまの前での、お父さまとお母さまのための、最後の家庭でのミニコンサートの時にも演奏された、「amazing grace」をオリジナルの編曲で、再び奏でられました。数分にわたって。
同じ葬儀なんてどこにもないに決まっていますが、本当に列席者の心に焼き付く、忘れられない時間となりました。
外部のホールでおこなわれた葬儀でした。お世話して下さったホールのスタッフの方お二人が、前夜式の終了後近づいて来ました。
おつかれさまですの言葉と共に、紅潮した表情で、その感動を伝えて下さいました。
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Yさんが召されてから、葬儀の前、そして、葬儀の時も含めて、目には見えないけれど、とても豊かなものが、見えてきました。
それは、ひと言で言えば、イエス・キリストの存在です。キリストを通して、真の豊かさを示されました。使徒パウロが記した言葉が浮かび上がります。
【あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。】(コリントの信徒への手紙 Ⅱ 8章9節)
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奥さまのTさん。たいせつな布団セットを、困り果てているおじいさんに届けに行くような方です。
いえ、それだけでなく、家の中に上げて、握り鮨をお寿司屋さんから取って、一緒に食べる方です。つい半年前のことです。
そんな奥さまを、Yさんは、傍らでいつも静かに見守り続けていた方でした。
昨年、金婚式を迎えた(お祝いを忘れていたそうです)ご夫妻は、主にある豊かさをいつしか自然に身につけて、ご夫婦で歩み続けて来られたのだな、と思います。
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Yさんのお宅の居間には、【わたしは道】(ヨハネによる福音書 14章6節)というみ言葉が刻まれた木版が、結婚当初から掲げられています。
その木版はこれからも外されないでしょう。
Yさんは、ご結婚の前から【わたしは道】と言って下さるイエスさまの備えられた道を歩き続けられたのでした。
それは天国に続いていました。
残されたご家族もまた、その道を歩き続けて下さることは何と幸いなことでしょう。end